2026年6月から、ベースアップ評価料が大幅に拡充されました。点数は引き上げられ、対象職員も受付・医療事務まで広がっています。ただし、この制度は「増収」ではなく「賃上げ専用の財源」です。原資が増えた今、問われるのは配分の設計と、賃上げをスタッフの定着にどう結びつけるか。制度の要点と、人材マネジメントへの活かし方を整理します。

はじめに|「プラス改定なのに、楽にならない」理由
2026年度の診療報酬改定は、過去最大水準のプラス改定として報じられました。しかし現場の院長からは、「売上は増えたが利益は残らない」「スタッフから賃上げを求められているが応えきれない」という声が聞かれます。
この感覚には理由があります。今回の改定で増えた財源の大きな部分が、医療従事者の賃上げに紐づけられているからです。その中核にあるのがベースアップ評価料です。算定して得た収入は対象職員の賃金引き上げに充てることが求められており、使途が限定されています。単なる増収ではなく「賃上げのための財源」という位置づけです。
つまり、この制度は院長の手元に残るお金を増やすものではありません。しかし見方を変えれば、これまで自院の利益を削って捻出するしかなかった賃上げ原資を、国が診療報酬という形で手当てしてくれる仕組みでもあります。重要なのは、この原資をどう配分し、スタッフの定着にどうつなげるかという設計です。
本コラムでは、スタッフ数名から10名規模のクリニックを念頭に、制度の要点を押さえたうえで、賃上げを離職防止につなげるための実務的な視点を解説します。
第1章|ベースアップ評価料の基本構造
1-1. 制度の目的と「使途限定」という特徴
ベースアップ評価料は、看護職員・医療事務・技術職員など医療従事者の賃金引き上げの原資を確保するために設けられた診療報酬上の加算です。2024年度改定で新設され、物価・賃金の上昇に対して医療従事者の処遇改善を進める目的で導入されました。
最大の特徴は、算定して得た収入を対象職員の賃金引き上げに必ず充てる必要がある点です。賃金改善計画書・実績報告書の作成と地方厚生局への提出も義務付けられており、「算定したが賃上げしていない」という運用は認められません。
1-2. (Ⅰ)と(Ⅱ)の使い分け
無床診療所が算定するベースアップ評価料には、(Ⅰ)と(Ⅱ)の2段階があります。
- 外来・在宅ベースアップ評価料(Ⅰ):初診時・再診時(訪問診療時等)に、すべての対象施設が基本として算定する点数。
- 外来・在宅ベースアップ評価料(Ⅱ):(Ⅰ)の算定による見込み収入だけでは賃上げ目標の原資に届かない場合に、上乗せして算定する点数。複数の区分が設定されている。
実務上の流れとしては、まず(Ⅰ)による見込み収入を試算し、目標賃上げ額に届かない場合に(Ⅱ)の届出・算定を検討することになります。

第2章|2026年改定で何が変わったか
令和8年度改定では賃上げが最重要テーマとされ、ベースアップ評価料が大幅に拡充されました。クリニックに関係する主な変更点は以下の通りです。
| 変更点 | 内容 |
|---|---|
| 対象職種の拡大 | 40歳未満の勤務医が新たに対象へ。整理が曖昧だった事務職員(受付・医事課職員)も明確に対象として位置づけられた |
| 賃上げ目標の引き上げ | 令和8・9年度それぞれで+3.2%のベースアップを支援する設計。看護補助者・事務職員は+5.7%という高い目標が掲げられた |
| 点数の大幅引き上げ | 令和8年度と令和9年度の2段階で引き上げ。令和9年6月には初診時の点数が令和6年度比で約6倍に達する設計 |
| 継続賃上げへの優遇 | 継続して賃上げに取り組む医療機関への手厚い評価区分が新設。要件を満たせばより高い点数を算定できる |
| 未実施への減算 | 賃上げを実施しない医療機関への減算規定が新設され、対応は実質的に必須に |
受付・医療事務が対象に入った意味
クリニック経営にとって特に大きいのが、事務職員が明確に対象へ位置づけられた点です。従来、受付や医療事務スタッフの賃上げは初・再診料の引き上げ分で対応するという整理でしたが、今回の改定でベースアップ評価料の対象に含まれることになりました。
小規模クリニックでは、看護師と同じかそれ以上に受付・医療事務スタッフが組織の中核を担っています。この層に対して正面から賃上げ原資を確保できるようになったことは、定着戦略を考えるうえで重要な変化です。
【注意】届出をしないと実質的に減収になります
令和8年度改定では、所定の期限までに届出をしないと減算となる扱いがあります。改定に合わせた再届出が必要なケースもあるため、届出スケジュールの確認は必須です。「気づいたら期限を過ぎていた」という事態は避けなければなりません。自院の届出状況が不明な場合は、管轄の地方厚生局または顧問の社会保険労務士・税理士に早急に確認してください。
第3章|届出・運用の実務でつまずくポイント
3-1. 計算ツールを使った試算の流れ
厚生労働省は、ベースアップ評価料の計算ツール(Excel)を公開しています。実務の基本的な流れは次の通りです。
- ①厚生労働省のWebサイトから計算ツールをダウンロードする
- ②対象職員の過去の給与総額・勤務形態(常勤/非常勤)・目標とする賃上げ率を入力する
- ③(Ⅰ)のみで要件を満たすか、(Ⅱ)の上乗せが必要かを判定する
- ④出力された賃金改善計画書と施設基準の届出書を管轄の地方厚生局へ提出する
- ⑤算定を開始し、年度末に賃金改善実績報告書を提出する
3-2. 小規模クリニックが陥りやすい3つの落とし穴
スタッフ数名規模のクリニックでは、総務・労務を院長や事務長が兼務しているケースが大半です。そのため以下の点でつまずきやすくなります。
- 原資の紐付けが説明できない:算定額をどの職員の賃上げにいくら充てたかを、後から説明できる状態にしておく必要がある。給与明細上で「ベースアップ分」が判別できる形にしておくと実績報告が楽になる。
- 勤怠・給与データとの整合が取れない:計画・実績の根拠となる人件費データが整理されていないと、毎回の集計作業が大きな負担になる。エクセルで職員別の給与推移表を作っておくだけでも実務は大きく変わる。
- スタッフに説明していない:最も見落とされやすい点。制度として賃上げを行っても、それがスタッフに伝わらなければ定着効果は生まれない(第4章で詳述)。
3-3. 補助金との併用も検討する
賃上げの原資は診療報酬だけではありません。自治体や国の補助金(業務改善助成金など)が併用できる場合があります。制度ごとに対象・使途・申請時期が異なるため、自院がどの制度を使えるかを一度整理しておくと、賃上げ原資をより厚く確保できます。

第4章|賃上げを「定着」につなげる——伝え方の設計
ここからが本題です。原資を確保して賃金を上げても、それだけでは離職は止まりません。賃上げが定着につながるかどうかは、伝え方と組織運営の設計で決まります。
4-1. 「黙って上げる」が最ももったいない
小規模クリニックでよく見られるのが、院長が制度を活用して賃上げを行ったにもかかわらず、スタッフがその背景を知らないケースです。給与明細の数字がわずかに変わっただけでは、スタッフは「物価が上がったから当然」程度にしか受け止めません。
賃上げの原資がどこから来て、院長がどのような判断で配分したのかを説明することには、金額以上の意味があります。「制度を使って、皆さんの処遇を改善するために届出をした」という事実を伝えるだけで、スタッフの受け止め方は大きく変わります。
【実践】スタッフへの説明に盛り込みたい3つの要素
①この賃上げは国の制度(ベースアップ評価料)を活用したものであること
②院長として届出・計画作成の手続きを行い、原資を確保したこと
③今後も継続的な賃上げに取り組む方針であること(継続賃上げの優遇区分についても触れられるとなお良い)
→ 朝礼やミーティングで5分、あるいは給与明細に一枚メモを添えるだけでも伝わり方が変わります
4-2. 賃金以外の「辞めない理由」を並行して整える
賃上げは離職防止の必要条件ですが、十分条件ではありません。医療機関を辞める理由として挙げられるものの多くは、金銭以外の要因です。小規模クリニックで特に効くのは次の3点です。
- 役割分担の明確化:「誰がやるか決まっていない業務」が放置されると、気の利くスタッフに負担が集中し、不公平感から離職につながる。業務の棚卸しと担当の明文化が有効。
- 小さな不満を拾う仕組み:年1回の面談では遅い。月1回15分でも、院長または事務長が一人ずつと話す時間を設けることで、問題が深刻化する前に対処できる。
- 成長機会の提示:資格取得支援、外部研修への参加、新しい業務への挑戦など「ここにいれば伸びられる」という実感が、賃金以上に定着を左右することがある。
4-3. 「採る経営」から「辞めさせない経営」へ
看護師・医療事務の採用コストは年々上昇しています。人材紹介会社を使えば、一人あたり年収の2〜3割の手数料が発生することも珍しくありません。加えて、新人が戦力化するまでの教育コストと、その間の既存スタッフの負担も考慮する必要があります。
離職を一人防ぐことは、採用を一人成功させることと同等か、それ以上の経営効果を持ちます。賃上げ原資が制度として確保されるようになった今こそ、採用広告に費やしていたエネルギーの一部を、既存スタッフの定着施策に振り向けるタイミングです。

第5章|院長が今月やるべきこと
ステップ1:自院の届出状況を確認する
まず、自院がベースアップ評価料(Ⅰ)(Ⅱ)の届出を済ませているか、2026年6月の改定に合わせた再届出が必要だったかを確認します。顧問の社会保険労務士・税理士がいる場合は、まずそこに確認するのが最短です。
ステップ2:対象職員と原資の紐付けを整理する
対象となる職員(看護師・医療事務・受付・40歳未満の勤務医など)をリストアップし、算定によって得られる見込み収入と、実際に賃上げに充てている金額を突き合わせます。この作業は年度末の実績報告で必ず必要になるため、早めに形を作っておくほど後が楽になります。
ステップ3:スタッフへの説明の機会を設ける
制度を活用して賃上げを行ったこと、今後も継続する方針であることを伝える場を設けます。長い話は不要です。5分でも、院長自身の言葉で伝えることに意味があります。
ステップ4:賃金以外の定着施策を一つ決める
役割分担の明文化、月1回の個別面談、研修制度の整備——どれか一つで構いません。賃上げと並行して「ここで働き続けたい」と思える要素を一つ増やすことが、来年の採用コストを下げます。
まとめ|制度は「原資」、定着をつくるのは院長の設計
ベースアップ評価料は、これまで院長が自院の利益から捻出していた賃上げ原資を、制度として確保できるようにした仕組みです。2026年改定での拡充により、対象も金額も大きく広がりました。届出をしなければ減算となる以上、対応は選択ではなく前提です。
ただし、制度が用意するのはあくまで原資です。その原資を誰にどう配分し、どう伝え、賃金以外の働きやすさをどう整えるか——ここは院長の設計に委ねられています。同じ金額の賃上げでも、伝え方ひとつで定着効果は大きく変わります。
まずは自院の届出状況の確認から。そして、次の給与改定のタイミングで、スタッフに一言伝える場を設けてみてください。制度対応と組織づくりは、本来セットで考えるべきものです。
【H2からのご案内】
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株式会社H2は、クリニック・病院の経営戦略全般を支援する医療コンサルティング会社です。制度対応・人材マネジメントから財務管理・集患戦略まで、経営課題に合わせたトータルサポートを提供しています。
※本コラムは執筆時点で公表されている情報に基づく一般的な情報提供です。ベースアップ評価料の具体的な点数、施設基準、届出様式等は厚生労働省の告示・通知により確定します。算定にあたっては、必ず厚生労働省および管轄の地方厚生局が公表する最新情報をご確認ください。
【参考】厚生労働省「令和8年度診療報酬改定について」/中央社会保険医療協議会(中医協)資料